いつだって一寸先は闇

をたくの備忘録です。

歓楽極まりて 哀情多し

最近、初めて「握手会」 というものに参加した日のことを思いだした。


当時高校生だった私は、 大好きな若手舞台俳優の写真集発売イベントの握手会に参加した。 目の前に彼がいることが現実なのか、 はたまた夢なのかもよくわからず、 何を話したかもよく覚えていない。これは後にわかったことだが、 彼はその日かなりしっかり香水を振っていたらしいのに私は何も匂 いを感じなかったので、五感もやられていたようである。 まるでテニスの王子様幸村精市だ。 ちなみに彼がテニミュで演じたのは白石蔵之介だ。


そのような中で確実に感じたのは「幸福」である。


いつもスマホの中にしか居なかった彼が、 他の何でもない自分に対して、笑いかけてくれた。それだけで、 天にも昇る気持ちになったのである。


しかしながら、二回目以降の参加から、 握手会に対する気持ちが一転することとなる。

 


どうしようもなく大きな「虚無」を感じるようになった。

 


握手会が楽しくなくなったということではない。
やはり大好きな人と会話することはとてつもなく幸せであるし、 彼が笑ってくれればこちらも自然と笑顔になる。しかし、 その幸せは、握手会で彼と対面しているたった数分、 数秒しか続かない。所謂「新規ハイ」(何も考えず推し最高! かわいい!かっこいい!となる新規の時期) が終わったということと、 初対面における極度の緊張がなくなったことにより、 とても冷静なってしまったのである。
冷静になってしまったことにより様々な事に気がつくこととなり、 結果として握手会後に強烈な虚無感に襲われることとなるのだ。


それでは、一言で「虚無」 といってもそれはどのような感情なのか。


まず一つ目は、握手会で「対話」をすることによって生れる。


「対話」は、対象が存在することで初めて成立するものである。 そして、対象を認識すると同時に、対象と対立する存在としての「 自己の存在」を認識せざるを得ない状況が生じる。私たちは、「 対話」を通して、「相手」と「自己」 の存在を対立させて認識する。 このように対象と自己の存在を対立させて認識したとき、 我々は置かれた状況の違いを存分に思い知ることとなる。
握手会で顔を合わせるまでは、 もはや彼が同じ地球に生きているのか? ということすら確信が持てないほど遠い存在に感じるため、 彼と自分が違う世界で生きていることはむしろ当たり前である。 しかし、「対話」によって、 彼も自分と同じ社会で生きていること・ 彼も同じ人間であることを明確に認識してしまう。そして、 気がつく。
私はこの握手会をずっと楽しみにして心待ちにしていた。 けれども、彼にとってこれは仕事の一つであって、 楽しいことではないのかも知れない。
私にとっての彼は、かけがえのない存在であり、唯一無二である。 けれども、彼にとっての私は、 数多くいるヲタクの内の一人である。
私は彼にお金を使うけれど、彼は私にお金を使わない。
私は死ぬ前にきっと彼のことを思い出す。けれども、 彼は死ぬ前に絶対に私のことを思い出さない。
そんなの悲しすぎる。悲しすぎて、何も考えたくなくなる。 そんな事実、受け入れたくない。彼は一応芸能人であるので、 このようなことは当たり前のことであるし、 その事を悲しむというのは馬鹿げていると、頭ではわかっている。 それでも、どうしても受け入れることができないのである。

 


次に、「同担」の存在によって生じるものがある。


多くの接触現場においては、 握手する時間やチェキを撮る時間よりも待ち時間の方が長い。 つまり、 推しと過ごす時間よりも同担と過ごす時間の方が長いのである。
その時間は地獄そのものだ。狭い部屋に詰め込まれるので、 嫌でも他の人の会話が聞こえてくる。
「この前私がプレゼントしたパーカー着てくれたの~」 といったプレゼントのマウント、「○○(推し) はこういうところあるからなー」という謎の上から発言、「 次の舞台、久しぶりに10列目なんてクソ席なんだけど~」 という普段良席アピマウント、「 やばい10冊も持って帰れないよ~」 という中途半端な写真集積みマウントなど、 聞いていて気持ちのいいものではない発言が永遠と耳に入ってくる 。ちなみに、 なされる会話のほとんどが同担に対するマウントである。 このくだらなすぎるマウント合戦を聞き続ける苦行は、 もう苛立ちなどを超えて虚無感しかない。
また、当然のことではあるが、 全員が全く同じ対応を受けるわけではない。
他のヲタクへの対応を見て、「 自分はちょっといい待遇をされている!」と少しだけ喜んだり、 はたまた「私の時はそんなことしてくれなかった」と、 自分の時の対応と比べて、勝手に落ち込んだりする。 どうしても他のヲタクへの対応が気になって、 Twitterでレポをエゴサしてしまう。 そしてまた落ち込んだりする。知らなければ良いものの、 悲しいかな、これがヲタクの性である。 どうしても調べずには居られないのだ。この行動をして残るのは、 対応の違いを知ったことによって生れた虚無感情だけである。 自分からエゴサしておいて、我が儘な話だ。


それでは、皆に同じ対応がされたのならば、 我々は虚無を感じずに済むのだろうか。


接触現場における対応の違い」について、 もう少し掘り下げてみよう。
数年前に開催されたT氏(人気2.5次元俳優) の握手会での対応が物議を醸した。T氏は「 ありがとうございます。」としか返答しなかった。「 なんでありがとうございますしか言ってくれないの?」 というヲタクからの質問に対しても「ありがとうございます。」 と返す徹底っぷりであったそうである。この” 高○洸ありがとうございますロボット事件”についての議論は、 当時大盛り上がりであった。「彼は全員平等の対応をする、 平和主義な優しい心の持ち主なのだ」という擁護意見が1割、「 ヲタクをなめるな」「いくらつぎ込んだと思っているのだ」 という批判意見が9割といったところであったように記憶している 。多くの人々は、 彼が握手会で全員にまったく同じ対応をしたことに対して、 憤怒していた。


私は「対応の違いによって虚無感情が生れる」と先述した。 しかしながら、T氏の握手会に対する反応より、「 対応が平等である事によって生れる虚無」 が存在することが明らかになっている。


ヲタクはどこまでいっても我が儘な生き物だ。結局、 参加者全員が幸せな接触現場は存在しないのである。


それでも、私たちは接触現場に足を運ぶ。


握手会が終わった後、 本当にこの上ないくらい暗い気持ちになるけれど、 辛くて降りたくなる程だけれど、それでも何度も何度も向かう。
虚無になることを知っていながらも、 接触現場で得ることのできる幸福を追い求める。
ここまで接触現場での虚無感情について熱弁してしまったものの、 接触現場で得ることのできる幸福は他の何物にも代えがたいのだ。
その日を最高のコンディションで迎えるため、 数週間前から美容室でメンテナンスをしたり、 ネイルを新調したり、新しいワンピースを買ったりする。 当日は早起きして念入りに身支度をする。 その準備もなんだかんだ楽しい。とてもお金はかかるけれど。 たった数秒の為だけれど。
一緒に撮った写真やチェキは、世界に一つしかない宝物だ。 辛いときに見返すと、当時の幸せな時間を思い出して元気になる。
当時嫌な思いをしたことも、数年も経てば楽しい思い出だ。「 写りが悪すぎる!最悪だ!」 と大騒ぎしてわめき散らかしたチェキも、こんなこともあったな~ と捉えられるようになったりするし、 宅配にしたはずなのに会場で数十冊の写真集を手渡しされ、 ヒーヒー言いながら新宿を歩いた事も、今では鉄板ネタだ。

 


接触現場に幸せは存在する。
同時に、 その幸せを飲み込んでしまうほどの虚無が存在することも確かな事実である。


けれど、初めて会ったときの、話したときの、 笑いかけてくれたあの瞬間の「幸福」は、 生涯忘れることができない。


その幸福を抱きしめて、私はこれからも接触現場に行く。

 

幸せなヲタク生活のすゝめ 〜2021 夏〜

あなたの考える「幸せなヲタク生活」とは、何だろうか?

これについて、それぞれ考えることは三者三様であろう。このことを踏まえた上で、私の考える「幸せなヲタク生活」について、語らせて欲しい。

 

①推しを「生きる意味」にしないこと

 推しが生きる意味ではいけない。これを第一に断言したい。

推しが私の為に生きているのではないのと同様、私は推しの為に生きているのではない。推しは、私たちの生活を支えてくれる存在である。なんだか辛い時、どうしようもなく悲しい時、ちょっと落ち込んだ時。そんな時に、心が折れないように、挫けないように支えてくれる存在なのではないだろうか。次に会える日を楽しみに仕事を頑張る事ができたり、動画やブログの更新で笑顔になれたり、写真を見つめるだけでも、心が晴れやかになったり。推しは、ちょっぴり壊れそうな時の自分を支えてくれ、生活をカラフルにしてくれる、そんな存在だ。

 推しが生きる意味だと、必ず裏切りを感じることになる。どれだけ愛していても、どれだけ長い間見守っていても、どこまでいっても所詮は他人である。私たちが願う方向にいかないことは当然。突然姿を消すことだってざらにある。「大好きな人に裏切られる」ということは、どうしようもなく悲しいことだ。犯罪行為を犯す等以外で裏切りを感じることは、最小限に抑えることが得策だ。

 

②推しを1人に限定しすぎないこと

  ヲタクは熱中する生き物である。だからヲタクになるのだ。そんな熱中することが特技の我々ヲタクは、推しを1人にすると、全ての熱を全集中させてしまう。推しが複数いることで、いい感じに熱を分散することが出来る。

 何故、全ての熱を全集中させることを避けるべきなのかと言えば、①で先述したように、推しが自分の全てのような状況になりかねないからである。ヲタクをしていて何か辛いことがあったら、他のハッピーなことでカバーすれば良い。そのために、様々な楽しみを持つことは有効である。

 

③推しの人間性に期待をしないこと

 アイドルや俳優は、「仕事」として活動をしている。言うなれば、私たちは彼ら・彼女らの仕事をしている姿に惹かれているのである。無論、様々な情熱や目標、夢を持って活動していることは確かであるが、それでも仕事なことに変わりはない。仕事を全うしてくれている以上、その先までを我々ヲタクが期待するのは、なんとも酷ではないだろうか。職場の自分と友人の前での自分が全く同じではないように、推しも同じであろう。もしかすると、180°違う人格かもしれない。それでも、その人格を否定しないでいたい。受け入れられなくとも、「人間だから仕方ない」と割り切ることは、捉え方の大きな変化である。割り切っていても、落ち込んだり絶望することはあるだろう。それでも、期待しないでいようという心持ちでいることで、絶望の度合いは大きく変わるのではないだろうか。

 

④時間をかけること

 もはやチート手段であるが、長く推せば推すほど、結局幸せになると感じる。人には、時間の経過でしか得られない慣れと余裕というものがあるのだ。ずっと全力でなくていい。少し離れたっていいし、片手間にでもいい。どんな形であれ、長く応援するということは、ヲタクにとって良い効果をもたらすように思える。

 また、ヲタクの幸せを妨害するものの7割は同担絡みの問題だろう。歴は武器だ。同担のあれこれでの悩みは、歴から得た慣れと余裕でぶっ飛ばせるようになる。

 

 

 読んでいてなんとなく察した方もいるかと思うが、数年前の私はこれらを全て網羅しているヲタクだった。推しは人生の全てのように感じていたし、たった1人彼さえいればいいと本気で思っていた。のくせに、ブログやファン対応などに怒り狂ったりしていた。前述した3点は、全て私の経験から得た知見である。

 今でも定期的にブチ切れたりすることはあるが、どうしようもなく辛いことはなくなったし、推しについて悩むことは劇的に減った。なにより、嘘なく「推してて幸せ!」と言うことができる。以前の私はできなかった。別に推しが犯罪を犯したわけでもなく、炎上したわけでもないのに、なぜか辛かったから。

本来、好きというプラスの感情から始まったはずのヲタク生活のはずなのに、どうしようもなく悲しくなったり辛い気持ちを抱えてしまう。実際、そんな実態のヲタクはこの世に数多といるのではないだろうか。

私の得た知見が、少しでも心の支えになったり行動の参考になれば、それ以上のことはない。

 

全世界の悩めるヲタクが幸せに生きることを、心から願う。

10年後、笑ってまた会いましょう。

担降りブログみたいなタイトルですが、違います。

 

安西君の一人芝居からもうすぐ1年が経つことに、ふと気がついた。

そういえば公演中はコロナの存在がぼちぼち広まっている頃で、高田馬場で外国人がマスクを高額販売していたことが印象深い。

その時は、1年経った今もコロナの影響が続いているだなんて思いもしなかったし、安西くんが病気療養をするだなんてことも、少しも想像していなかった。

 

思い返すとこの一年、今までより怒ったり悲しい気持ちになることが多かった。

 

安西君は「陽は陽であって陽ではない。つまり、陽は陽である。」という意味不明なブログをあげた。インスタライブで私の生き方を否定した。「今年は舞台には出ません!決めました!」という宣言の後、普通に「出演させていただきます。何卒宜しくお願い致します。」という舞台出演決定ツイートをした。西野亮廣のツイートをRTした。ヲタクをメンションしてストーリーをあげた。

 

前述のインスタライブで生き方を否定された時、私は「この人にお金と時間を使うのをやめよう。降りよう。」と、初めて感じた。今までも散々ぶち切れて降りる降りると大騒ぎしてきたが、このときが一番本気だった。(ちなみにこのときの心境がブログに残っててウケた)

 

結果、私は降りなかった。

 

降りることができなかったという表現の方が正しいのかも知れない。

10月に8ヶ月ぶりの現場が決まったとき、私はぶち切れた。おまえ、今年は舞台出ませんって言ったよな?

けれど銀座に足を運んだ。

確かに、生き方否定事件から安西君から離れていた。離れていたことで、新しく応援したいと思える人とも出会えたし、実際今も応援している。超楽しい。

けれどそれが安西君のヲタクをやめることには繋がらなかった。結局、降りよう!と決意して降りることなど不可能で、降りるときには興味がなくなって自然に降りるのだと思う。

 

なんだかんだ降りることができなかった事実を受け、「自分は安西慎太郎をなぜ応援しているのか」という事を考えた。

 

今までも友人に「安西のどこが好きなの?」と散々聞かれた。けれど、うまく答えられず、もどかしい思いでいっぱいだった。よく「顔が好きなの?」と聞かれたけれど、顔が好きなわけじゃない。もちろん嫌いではないが、安西君はがっつり二重でパーツもはっきりしており、どちらかというと私の好きな顔の系統とは違う。オマケに身長もあまり高くないし、私服も髪型もださい。俳優友達も多くはない。ヲタクへの対応も別に特段良くはない。SNSの更新頻度も安定しないし、内容もアレだ。

たくさんたくさん考えて、やっと見つかった。

 

下心がないところだ。

 

「有名になりたい」とか、「ちやほやされたい」とか、「お金をたくさん稼ぎたい」「みんなでワイワイするのが楽しい」という理由で舞台に立っていないように見えるから好きなのだ。実際そうなのかは分らないけれど、そう見えるのだ。

舞台メイキングで、若手舞台俳優は自分からカメラにめちゃくちゃ映りに来る。一発芸をしたり、他の演者と仲良くしていることをアピールする。カメラさんと楽しく会話したりもしている。でも安西君はほとんど映らない。主演だろうがなんだろうが、ほとんど自分からは映っていないことばかりだ。『四月は君の嘘』では、舞台に上がる直前、キャストがみなカメラに向かってガッツポーズや意気込みを一言残して通過していくのにもかかわらず、主演の安西君はカメラガン無視だった。カメラさんが「あ、安西さん…!!」と申し訳なさそうに声をかけていた。以前はメイキングにあまり映っていないのがとても悲しかったが、今となっては、逆にメイキングカメラアピールしてきたら降りると思う。

若手舞台俳優なんて全身ハイブラ固めだらけなのに3年くらい気に入った服を着つづけているし、行くのが社交辞令なのに「台本を確認したいから」といって飲み会を断る。そんな俳優という職業に下心がないのが安西君なのだ。

安西君の演技ではずれだと思ったことは一度もない。舞台はクソでも、安西君はいつだって恐ろしいほどの存在感だった。

わたしは安西君の演技が、演技に対する姿勢が好きだ。舞台にいる安西君が大好きだ。だから、ずっと見ていたいなと思うのだ。安西君は、「ファンのみんなが僕の演技を自慢できるぐらいになりたい」と言うけれど、私はもうとっくに安西君を、安西君の演技を友達みんなに自慢できる。というかしてる。

わたしにとって、安西君はかけがえのない存在だ。家族でも友達でも恋人でもないけれど、かけがえのない人なのだ。

今後降りる日が来ても、安西君が私の人生に影響を与えてくれたこと、日々に彩りをくれたことは変わらない。そう思うと、日々文句を垂れながらもヲタクでいるのも悪くないな、なんて思う。安西君が俳優でいてくれることに感謝しなければとさえも思えてくる。まあ以前「舞台の上は自分の家よりも落ち着く」と言っていたので、彼は死ぬまで板の上にいると思うのですが。というかさすがに自分の家よりってのは盛りすぎじゃない?家の環境が悪いんじゃねーの?

 

自分が安西君のどこが好きで応援しているのか気がついたのは、とても大きな事であるので、今回記事に残した次第である。

全肯定することは今後もできない。特に、やっぱりどうしても西野を尊敬するのはやめてほしい。多分これからも私は色々なことにたくさん怒り続ける。

それでも、劇場に安西慎太郎がいればそれ以上は本人に望まない。

だから、10年後も、劇場で笑ってまた会いましょうね。そんな願いを込めて。

 

ここまで読んでくれた方にとっておきの情報をプレゼントします。安西くんはボクサーパンツ派って言ってました。以上。

安西くん、療養必要だってよ。

(8月4日 総括更新)

 

書きたい時に書き加え、消したい時に消します。

日記というか備忘録のような、そんなものです。

復帰した時に、こんなこともあったねって笑えるように。

 

12月27日

安西くんが舞台を降板した。開幕の前日のことだった。訳が分からなくて涙も出なかった。なんでお金を払っても会えないのだろう?わかっているけれどどうしても受け入れられない。

 

12月28日

チケットを譲りに、劇場に行った。いつもの見慣れた年末の風景だった。いないのに、名前ののぼりが上がっていた。快晴だった。友人とやきとんを食べた。やるせなくて、たくさんたくさんお酒を飲んだ。

 

12月29日

二日酔いになった。劇場に行った。観劇した。

安西くんはいなかった。すごくすごく悲しかった。愉快に踊るみんなを見ながら泣いた。そりゃ少しは悲しい気持ちになるだろうとは思っていたが、自分でもここまで泣くとは思わなかった。二日酔いと涙でずっと足元がフラフラだった。酒には気をつけようと思った。次の日のチケットを売った。

一緒に観劇に来てくれた友人がずっと支えてくれた。友人がいてくれたので楽しい思い出になった。

 

1月10日

安西くんが舞台を降板した。1月下旬開幕のものだ。ならびに、「体調不良のため療養が必要と医師の判断を受けた」と発表された。

今、安西くんが何に苦しんでいるのかよくわからないのが、とてつもなくもどかしい。元気かな?と思う日々だったが、元気ではないことがわかってしまった。

私が次安西くんに会える日は何月何日なのか、わからなくなってしまった。

 

1月24日

安西くんが降板した舞台のチケットを払い戻しした。

紙がお金に変わった。前に誰かがつぶやいてたけれど、本当に魔法が解けたみたいだった。

このお金でSUQQUのリニューアルしたアイシャドウ買っちゃおうかなあ。本当は貯金が最善策なことはわかっているのだけれど、楽しいことに使わないとどうもやってられないの

 

3月1日

先月末に、体調の現状およびチェキ発送の遅延が発表された。また、ラジオドラマへの出演が明かされた。

勿論、少し安心した部分はある。けれど、なぜだかなんとも形容し難いような寂しさが増幅したような気がする。これが彼に必要な時間なのは重々わかっているが、空白はとてもとても悲しいものだ。

そういえば、SUQQUのアイシャドウは買わなかった。でもPOLAのコンシーラーは買った。

 

3月31日

バースデーイベントのチェキが発送されるとのお知らせがあった。

見た目やカメラ写りに割と無頓着な安西くんのランダムチェキは、本当に未知数である。わたしはちょっと元気になった。安西くんが元気なのかはわからないけれど。

今年も、桜のレターセットは使えなさそうだ。

 

4月3日

バースデーイベントのチェキが来た。

想像していたのと結構違うものが来た。

半年前ぐらいに「次やりたい」と言っていた髪型になっていた。こういうなんとも言えない部分のことを有言実行するのが安西くんなんだよなあ、元カノ面になった。

 

5月28日

安西くんの舞台復帰が決まった。

心から嬉しく思う。本当に涙が出そうである。長いようで短い、やっぱり長い5ヶ月だった。

何だか気持ち悪い事を書いてしまうが、安西くんが舞台に立つだけで、私は嬉しいのだ。例え私がその場に居なくても、舞台の上にいるという事実があることだけで、とてつもなく嬉しい。

だって安西くんは、舞台にいれば必ず幸せなのだから。私は安西くんが幸せでいてくれることを心から祈っている。

なんだか、休養期間を経て私は少し大人になった気がする。勝手に気負っていたものがなくなったような、そんな感じである。

さて、半年ぶりのチケット取りが上手くいくのか。見ものである。

 

8月2日

さて、まだまだ先だなあと思っていた観劇初日が明日に迫っている。

ちなみに、前回「チケット取りが上手く行くのか」と記したが、結果として間違えて愛知公演を1枚取った。

既に作品自体は開幕しておりゲネ映像も見たものの、何だかまだ安西くんが復帰した実感が湧かない。その上、「明日だ!楽しみ!やばい!」という程の興奮も特になく、「あ、明日かあ。」という感じである。

待ち望んでいた観劇初日の前日は、案外呆気ない気持ちなのだと思い出した。けれど、そんな呆気なさすらも心地よいものに感じる。

 

8月3日

安西くんが舞台にいる姿を見た。

とにかく安心した。安西くんが舞台の上にいると、私はものすごく安心する。それはきっと、とても幸せそうに見えるからである。安西くんは今日も幸せなんだなあと感じることができるから。

安西くんが袖にはけたあと、自然と涙が出てきた。私にとって安西くんの療養期間は「長いようで短かった」なんて大人びた感想は言えず、長くて長くて長かったから。

安西くんは、私の5000倍療養期間を長く感じただろう 。私の1000000倍辛かっただろう。それでも、舞台にいる姿を見せてくれてありがとう。本当にありがとう。

私にとって、今日はとてもとても幸せな日になった。

 

 

【総括】

記事の入りに、「復帰した時に、こんなこともあったねって笑えるように。」と記したが、実際今「こんなこともあったな〜」と笑いながら読んでいる。

しかし、思い返すと本当に辛い時期もあったなあと感じる。せっかくなら全てをこの記事に残したいのでここで挙げようと思うが、友達と楽しく買い物している時に繁華街を行き交う人々を見て「安西くん今何してるの?」と突如号泣して友達を困らせたり、シラフなのに「こんなに辛い思いをするなら出会わなければよかった」と月9出演者並の発言をしたり、家で夜ご飯を食べ終わったふとした瞬間に「会いたいよ〜〜」と叫びながら1人で泣いたりしていた時期もあった。

 

この療養期間を通して、私は安西くんがいなくてもごくごく普通に生活を送ることができるとわかった。

そりゃかなり落ち込んだりはしたし、前述のように辛い思いはしたけれど、生活は普通に送ることができた。友達をびっくりさせるぐらい暗いだとか、どうしようもなく無気力だとか、大学に行けない、バイトに行けないだなんてことはなかった。普通に授業を受け、友達と遊び、アルバイトもして、洗濯も自炊もして生きてた。

かの有名な某巻頭ポエムに「僕は ついてゆけるだろうか 君のいない世界のスピードに」というものがある。この言葉を拝借すると、私は安西くんがいない世界のスピードに割と普通についてゆけた。

このことを愛が足りないと捉えるのかどう捉えるかはそれぞれであるが、私は普通に生活ができたことが嬉しかった。私の応援の形が依存になっていなかったことがわかったからである。私は、可愛いヲタクでいたい。私は依存することをかわいいと思わない。だけど、心のどこかで、自分は安西くんに依存してしまっているのではないかと不安だった。だから、安西くんがいなくても生きていける自分でいることができて、とても嬉しかった。

 

もう1つわかったことは、安西くんがいない世界は物足りないということ。

あと何日で安西くんの演技が見れる!という期待、幕が上がる前の暗転のどきどき、舞台にいる安西くんを見ている時の幸せな気持ち、劇場からの帰り道の満たされた気持ち、明日からも頑張ろう!という活力。こんなのまだまだ序の口で、安西くんがいる世界でしか感じられない気持ちはまだまだある。これがないと私の毎日は物足りない。

安西くんがいない世界は、私にとってとても寂しい世界だ。

だから、もうあと50年くらいは私の世界からいなくならないでほしい。

そう心から願うばかりである。

 

安西慎太郎に幸あれ。

私に幸あれ。

久しぶりに会った安西くん

8ヶ月ぶりに安西くんの芝居を見に行った。

 

久しぶりであることに加え、会場が劇場でなかったり、人生で初めて友人を招待したりと、今までの観劇とは少し違った要素が多くあったために、なんだかいつになく緊張して銀座駅に降り立った。

 

久々に安西くんを目にして、思い出したことが沢山ある。

 

安西くんの芝居を見ると、なんだか幸せな気持ちになること。

安西くんの眼差しは情熱に満ちていること。

安西くんの瞳はいつもキラキラしていること。

横顔の骨格のラインがとっても綺麗なこと。

ついでに、去年の秋のイベント開始前にトイレの前で遭遇して気まずかったことも思い出した。

 

半年以上ぶりに見たからか、初めて気づいたこともある。

 

表情が、声が、息が、背中が、全てが優しいこと。

 

今まで全然気づかなかった。でも、登場した瞬間に「あぁ、この人はなんて優しい人なんだろう。」と、強く思った。なぜだかよくわからない。わからないけれど、その「優しさ」に惹かれていつも劇場に行くのかも知れないなあと、ぼんやり感じた。

 

もう1点、印象的だったことを記録しておきたい。

いつもどれだけ情熱的な演技をしても、カーテンコールでは真顔なことがほとんどであると記憶していた。しかしながら、この日は顔が少し紅潮していて、少し涙を浮かべているように見えた。

具体的に何を感じていたかはまったくわからないけれど、私が色々なことを感じて心揺さぶられたように、安西くんも何かが心に響いたのではないかと思う。

 

そう考えると、8ヶ月という期間が私たちにもたらしてくれたものの中に、意味を見出せるような気がする。

『虎者-NINJAPAN-』とは何だったのか

2020年10月26日

ジャニーズJr.のTravisJapanが主演を務める舞台、『虎者-NINJAPAN-』の昼公演の配信を視聴した。

 

昨年はTravisJapanのメンバーの名前を半分言えるか言えないかのレベルであった私だが、現在、幸福度No.1グループ(公式)であるTravisJapanを楽しく応援している。

(つまり新規である上に昨年の虎者を鑑賞していないので、その点はご了承いただきたい)

 

(追記:以下より「虎者」という語は主に一幕を指す)

 

「虎者」を見て一番に湧いた感情は、「これは、舞台と呼ぶものなのだろうか?」というものだ。

 

 

私は舞台鑑賞が大好きだ。本当に好きだ。以前は所謂”舞台界隈”にいた。

 

自分とたった数mしか離れていない舞台にはまるで違う世界が広がっていて、その舞台では、自分と同じ人間とは思えない程にエネルギーに満ちた人々が”役として”生きている。

ひとつひとつの言葉回しはもちろん、呼吸、瞳の動き、全ての瞬間がその”役”として舞台上にある事を感じ取ることができるのが好きだ。

 

 

まず、今回の「虎者」におけるTravisJapanは「素晴らしい」の一言に尽きると思う。

活力に満ちていて、一人一人がそれぞれの輝きを持っていた。自分自身は劇場にいないものの、映像からエネルギーを感じ取ることのできるほどであった。7人全員が、この作品にまっすぐ、真摯に向き合い、今出せる自分の力を全て注いでいる。そんなことが伝わる素敵な時間をプレゼントしてもらった。

 

その姿勢を感じ取ったからこそ、この問いをもう一度投げかけたいと思う。

 

 

「これは、舞台と呼ぶものなのだろうか?」

 

 

①TravisJapanの台詞量

率直に申すと強烈に少ない。

正直、カゲロウの方が台詞量が多いんじゃないかと思うくらいだ。最初の台詞(各々の場所から父上誘拐の話をする場面)から次の台詞まで、体感1時間くらい(実際は15分ほどであろうが)台詞がなかったように感じた。

時間の都合上かも知れないが、舞台として、観客に内容を伝える・感情を伝えるためにはあまりにも少なすぎる台詞量であるという印象を受けた。

純粋に、もっと役として話すTravisJapanのメンバーが見たかった。

 

 

②パフォーマンス時間の扱い

事前に目にした雑誌などでも、パフォーマンスの完成度が本公演のウリであることが言われていたが、その通りであり、とても魅力的なパフォーマンスばかりであった。タップ・トランポリン・映像とのコラボレーションなど、”TravisJapanだからこそできる”ようなパフォーマンスが多くあり、軽い言葉にはなってしまうが、感動した。

が、しかし。公演を見終わった今。冷静になった今。

あのパフォーマンスは何を表していたのか?とイマイチわからない場面が多々ある。それは舞台という表現芸能として良い構成と言えるのだろうか。

 

加えて、殺陣の時間の少なさについても触れたい。

「忍者」がテーマであると伺っていたので、殺陣が見れることは期待していた。実際、殺陣シーンはあったが、あまりにも短すぎる。殺陣が危険を伴うこと、難易度が高いこと、たくさんの練習が必要なことは重々承知している。TravisJapanは本当に忙しい。だから、稽古時間との兼ね合いかも知れない。けれど、私はもっとTravisJapanの殺陣が見たかった。彼らの身体能力の高さを存分に発揮した殺陣が見たい。バキバキの戦いが見てみたい。そんなふうに思った。

 

 

③人物設定の浅さ

まず、登場人物に役名がないということが一番理解できない。

なぜ敵方に「カゲロウ」「ハヤブサ」という名前を持つ人物が登場するのにも関わらず、主演である「虎者」達にはそれぞれの名前がないのか。これはシンプルに理解しかねる。

 

続いて、個人的3大トンチキキャラについて疑問点と共に記す。こちらも、何を狙ってこのような人物像になったのか、想像もできない。

ちなみに、これらは役者の演技について申し上げているものではなく、作品における”役”についてである。

(1)父上   改心したら過去の悪行も許されるのか?それが本当の平和?

(2)カゲロウ 最後強大化?

(3)ハヤブサ 何がしたいの???

正直、どの役も役者の熱量が素晴らしかったからこそ成り立っていたとしか言えないのではないか。

 

 

 

”舞台”と表記するならば、舞台を見せて欲しい。今回の公演は、どちらかというと”ショー”に近かったのではないだろうか。

 

ショーと舞台は同じではない。

 

例えるならば、高級カルフォルニアロールだ。

(これが正しい表現なのか今自分でもよくわからない)

 

本場の寿司とはかなり違うけれど、とってもおいしい。ただ、これを寿司と呼ぶことはちょっとはばかられる、そんな印象である。

カルフォルニアロールもおいしくて大好きだ。大好きだけれど、私は、”寿司”と銘打つなら寿司が出てきて欲しい。

 

来年がどうなるかは誰にも予想できないが、内容と名目が一致したら良いなと思う。

 

役者の方々が全身全霊だったからこそ、脚本や構成において非常に気になる部分が多く見受けられたと感じる。

 

 

つらつらと持論を述べてしまったが、結論として、この舞台には伸びしろしかないのである。

なんてったって主演はTravisJapanだ。

 

 

 

『虎者-NINJAPAN-』とは何だったのか。

 

 

 

ただ一貫して言えることとして、TravisJapanは、「虎者-NINJAPAN-」は、私に幸せを与えてくれた。

 

素人がいろいろ文句をたれてしまったが、そのことだけは強調しておきたい次第である。

 

 

 

 

 

~余談~

HappyGroovyのアレンジ、本当に最高ですね。「思い切って歌割り変えちゃおう!」と思いついた人誰ですか?天才です。

 

安西くんとわたし

完全な備忘録

 

6年前に、テレビの画面越しに安西くんに出会った。

 

 

3つ年の離れた姉の友人が自宅に遊びに来た際、あるDVDを私も一緒に見た。

 

ミュージカル『テニスの王子様』青学VS四天宝寺

 

元々漫画が好きだった私は、その時代をときめいていたテニプリも大好きだった。中でも、四天宝寺中学の部長である白石蔵ノ介くんのことがすごく好きだった。

 

何気なく見たそのDVDには、大好きな白石蔵ノ介くんが同じ次元で存在したのだ。

 

漫画のキャラクターだから現実には居ないはずの白石くん。それでも、画面の中には確かに本物の白石くんがいるのだ。クラスの男子たちとは違う、落ち着いていてかっこいい、大好きな白石くんが。

 

正確には白石蔵ノ介役の安西くんである。私は安西くんの演じる白石くんに夢中になった。ひとつひとつの動きも、発する言葉も、私の大好きな白石くんだったから。

 

テニミュのシーズンが終わった頃、あることに気がついた。

 

 

安西くんの次の舞台を見に行きたいと強く思ったのだ。

 

 

安西くんの演じる白石くんが好きだったはずなのに、白石くんの役以外の安西くんが見たい、安西くんに会いたい、と感じた。

ここで、不思議な冷静さで「ああ、私はいつの間に安西くん自身に夢中になっていたんだ。」と自覚したことを今でもよく覚えている。

ただ、残念なことにまだこの頃は未成年の学生である。一作品一回の観劇が限界であった。その上、安西くんはSNSでの発信やブログの更新の頻度も低い俳優さんであったため、まるで雲の上の人のように感じていた。

 

年々、安西くんの出る作品を観劇する回数も増えていった。

 

安西くんのおかげで笑顔になれる回数も増えていった。

 

安西くんのおかげで頑張れることも増えていった。

 

2018年に、今でも大好きな、忘れられない思い出ができた。ブログの更新もほとんどなく、稽古期間や公演期間以外に何をしているのか全くわからなかった状態で突然決まったセカンド写真集の発売。(後々考えれば私たちへの退社前最後のプレゼントだった。)加えて発売記念のチェキ会が決定した。

1ヶ月前からハンドクリームを欠かさず塗ってケアしたこと。奮発して新しいワンピースを買ったこと。まだ暑さの残る季節、ドキドキしながら新宿に向かったこと。チェキ会が始まる前からずっとずっと幸せな気持ちでいっぱいだったこと。全てが最高にいい思い出だ。

会場に着いてから始まるまではとても暑い中長時間待たされたことしか覚えてない。

だんだん近づく自分の番にひたすら緊張していたような気がする。

セカンド写真集発売記念のチェキ会では、くじで当たりを引いたらスマホでツーショットを撮ることが出来るというボーナスイベントが設けられた。そこまで冊数を積まなかった私だが、ここで持ち前の強運を発揮して、当たりを引いたのだ。

雲の上の存在の安西くんが隣にいて、私の肩を抱いてくれて、私のスマホを持っていて、笑顔で。

この上ない幸せだった。現実ではないと思った。実際全てがスローモーションに見えた。

「安西くんってこんなに無臭なんだ……」と感じたが、後々エゴサをしたらみんないい匂いがしたとつぶやいていたので、私は緊張と興奮と混乱で嗅覚が死んでいたのだと思う。

そんなこんなで、今思い返すとこの時が1番楽しかったと思う。

 

 

2018年の冬、安西くんの仕事は0だった。

 

 

間が空くことなく安西くんの舞台が決まっている当たり前だと思っていた私は、とてつもなく不安になった。

留学に行ってしまうのだろうか?結婚するのだろうか?事務所に干されてしまったのか?まさかクビ?

日常のふとした瞬間にも、次安西くんに会えるのがいつかわからない悲しみに襲われていた。

 

 

2019年になって、安西くんの事務所からの独立が発表された。

 

 

悲しみからは解放されたものの、不安は残っていた。当たり前だが、事務所所属の俳優とフリーランスの俳優では全く異なる。これから安西くんはどうなってしまうんだろうという漠然とした不安が、私の心には大きくあった。SNSの開設やブログの頻度が上がったことに対する驚きからかもしれない。

 

独立後、約半年ぶりに見た安西くんは、私の大好きな安西くんだった。得意の美しい殺陣、よく通る声、繊細な表情、全部全部大好きだった。公演時間が4時間越えでも、もっともっと見ていたいと思うくらい。

 

独立してからの安西くんは生き生きしていた。事務所時代が窮屈そうであった訳ではないが、なんだかのびのびしているなあと感じた。

 

安西くんが出演する舞台はやっぱりどれも面白かったし、いつだって楽しく劇場に向かっていた。

 

劇場周りの美味しいお店でご飯を食べるのも楽しかった。駅に着くのがギリギリすぎて、ハイヒールで真夏の渋谷を駆け抜けたり、真冬の人形町を猛ダッシュしたことすら楽しかったような気がする。

 

2月には一人芝居にも挑戦していた。狭い空間で、数メートル先の近い距離に安西くんがいて、ものすごい熱量を感じた。実習中だったけれど、その疲れも忘れるくらい充実した時間だった。

 

世の中のほとんど全てが停止した2020年春。

 

安西くんに会えないことがつらい日々だった。

 

ある日突然、安西くんがインスタライブをすると言った。

 

SNSに弱い安西くんが生配信をするなんて予想外であったし、少し心配であった。でも、画面越しでも元気そうな安西くんを見れることは幸せだった。

 

外カメにしてしまったり、安西くんのWiFiがカスだったり、色々あっても見ている時間は幸福だった。

 

 

でも、いつからか、インスタライブを見るのが辛くなってしまった。

他の視聴者さんのコメントを見てマイナスな気持ちになったり、安西くんの話してくれていることや価値観に同感できなかったり、今の仕事に対するスタンスを受け入れられなかったり。

はっきりと表せないけれど、見ていて気持ちが沈むようになった。

 

悲しかった。

 

安西くんを見る回数が減っていった。

 

安西くんの話を聞くとモヤモヤするようになった。

 

楽しかった思い出のチェキやツーショットを見ると自然と涙が出てきそうだった。

 

私は安西くんのことを好きじゃなくなっちゃったんだなあと、自覚したくないけれど自覚せざるを得ない、そんな状態だった。

 

これは一瞬の気の迷いかもしれない。また舞台にいる安西くんを見たら好きになるかもしれない。

 

でも、今まで安西くんに対して持ったことのない気持ちを持っていることは確かで。初めてマイナスな感情を持っている今、出会ってからの気持ちを書き留めたいと思った。

 

安西くんに「見たくない」「嫌だ」という感情を抱いたのは、出会ってから初めてだ。

 

また、好きになれますように。

 

そう祈るばかりだが、安西くんを応援することに終止符を打つかもしれないと初めて感じた今、始まりから今までを記録した迄である。

 

 

 

(追記:時系列に物事を述べるという小中学校の作文の授業で注意されるレベルの稚拙な文章でお恥ずかしい限りですが、心の整理の為に書き出した、私にとって大切な文章です。)