いつだって一寸先は闇

をたくの備忘録です。

歓楽極まりて 哀情多し

最近、初めて「握手会」 というものに参加した日のことを思いだした。


当時高校生だった私は、 大好きな若手舞台俳優の写真集発売イベントの握手会に参加した。 目の前に彼がいることが現実なのか、 はたまた夢なのかもよくわからず、 何を話したかもよく覚えていない。これは後にわかったことだが、 彼はその日かなりしっかり香水を振っていたらしいのに私は何も匂 いを感じなかったので、五感もやられていたようである。 まるでテニスの王子様幸村精市だ。 ちなみに彼がテニミュで演じたのは白石蔵之介だ。


そのような中で確実に感じたのは「幸福」である。


いつもスマホの中にしか居なかった彼が、 他の何でもない自分に対して、笑いかけてくれた。それだけで、 天にも昇る気持ちになったのである。


しかしながら、二回目以降の参加から、 握手会に対する気持ちが一転することとなる。

 


どうしようもなく大きな「虚無」を感じるようになった。

 


握手会が楽しくなくなったということではない。
やはり大好きな人と会話することはとてつもなく幸せであるし、 彼が笑ってくれればこちらも自然と笑顔になる。しかし、 その幸せは、握手会で彼と対面しているたった数分、 数秒しか続かない。所謂「新規ハイ」(何も考えず推し最高! かわいい!かっこいい!となる新規の時期) が終わったということと、 初対面における極度の緊張がなくなったことにより、 とても冷静なってしまったのである。
冷静になってしまったことにより様々な事に気がつくこととなり、 結果として握手会後に強烈な虚無感に襲われることとなるのだ。


それでは、一言で「虚無」 といってもそれはどのような感情なのか。


まず一つ目は、握手会で「対話」をすることによって生れる。


「対話」は、対象が存在することで初めて成立するものである。 そして、対象を認識すると同時に、対象と対立する存在としての「 自己の存在」を認識せざるを得ない状況が生じる。私たちは、「 対話」を通して、「相手」と「自己」 の存在を対立させて認識する。 このように対象と自己の存在を対立させて認識したとき、 我々は置かれた状況の違いを存分に思い知ることとなる。
握手会で顔を合わせるまでは、 もはや彼が同じ地球に生きているのか? ということすら確信が持てないほど遠い存在に感じるため、 彼と自分が違う世界で生きていることはむしろ当たり前である。 しかし、「対話」によって、 彼も自分と同じ社会で生きていること・ 彼も同じ人間であることを明確に認識してしまう。そして、 気がつく。
私はこの握手会をずっと楽しみにして心待ちにしていた。 けれども、彼にとってこれは仕事の一つであって、 楽しいことではないのかも知れない。
私にとっての彼は、かけがえのない存在であり、唯一無二である。 けれども、彼にとっての私は、 数多くいるヲタクの内の一人である。
私は彼にお金を使うけれど、彼は私にお金を使わない。
私は死ぬ前にきっと彼のことを思い出す。けれども、 彼は死ぬ前に絶対に私のことを思い出さない。
そんなの悲しすぎる。悲しすぎて、何も考えたくなくなる。 そんな事実、受け入れたくない。彼は一応芸能人であるので、 このようなことは当たり前のことであるし、 その事を悲しむというのは馬鹿げていると、頭ではわかっている。 それでも、どうしても受け入れることができないのである。

 


次に、「同担」の存在によって生じるものがある。


多くの接触現場においては、 握手する時間やチェキを撮る時間よりも待ち時間の方が長い。 つまり、 推しと過ごす時間よりも同担と過ごす時間の方が長いのである。
その時間は地獄そのものだ。狭い部屋に詰め込まれるので、 嫌でも他の人の会話が聞こえてくる。
「この前私がプレゼントしたパーカー着てくれたの~」 といったプレゼントのマウント、「○○(推し) はこういうところあるからなー」という謎の上から発言、「 次の舞台、久しぶりに10列目なんてクソ席なんだけど~」 という普段良席アピマウント、「 やばい10冊も持って帰れないよ~」 という中途半端な写真集積みマウントなど、 聞いていて気持ちのいいものではない発言が永遠と耳に入ってくる 。ちなみに、 なされる会話のほとんどが同担に対するマウントである。 このくだらなすぎるマウント合戦を聞き続ける苦行は、 もう苛立ちなどを超えて虚無感しかない。
また、当然のことではあるが、 全員が全く同じ対応を受けるわけではない。
他のヲタクへの対応を見て、「 自分はちょっといい待遇をされている!」と少しだけ喜んだり、 はたまた「私の時はそんなことしてくれなかった」と、 自分の時の対応と比べて、勝手に落ち込んだりする。 どうしても他のヲタクへの対応が気になって、 Twitterでレポをエゴサしてしまう。 そしてまた落ち込んだりする。知らなければ良いものの、 悲しいかな、これがヲタクの性である。 どうしても調べずには居られないのだ。この行動をして残るのは、 対応の違いを知ったことによって生れた虚無感情だけである。 自分からエゴサしておいて、我が儘な話だ。


それでは、皆に同じ対応がされたのならば、 我々は虚無を感じずに済むのだろうか。


接触現場における対応の違い」について、 もう少し掘り下げてみよう。
数年前に開催されたT氏(人気2.5次元俳優) の握手会での対応が物議を醸した。T氏は「 ありがとうございます。」としか返答しなかった。「 なんでありがとうございますしか言ってくれないの?」 というヲタクからの質問に対しても「ありがとうございます。」 と返す徹底っぷりであったそうである。この” 高○洸ありがとうございますロボット事件”についての議論は、 当時大盛り上がりであった。「彼は全員平等の対応をする、 平和主義な優しい心の持ち主なのだ」という擁護意見が1割、「 ヲタクをなめるな」「いくらつぎ込んだと思っているのだ」 という批判意見が9割といったところであったように記憶している 。多くの人々は、 彼が握手会で全員にまったく同じ対応をしたことに対して、 憤怒していた。


私は「対応の違いによって虚無感情が生れる」と先述した。 しかしながら、T氏の握手会に対する反応より、「 対応が平等である事によって生れる虚無」 が存在することが明らかになっている。


ヲタクはどこまでいっても我が儘な生き物だ。結局、 参加者全員が幸せな接触現場は存在しないのである。


それでも、私たちは接触現場に足を運ぶ。


握手会が終わった後、 本当にこの上ないくらい暗い気持ちになるけれど、 辛くて降りたくなる程だけれど、それでも何度も何度も向かう。
虚無になることを知っていながらも、 接触現場で得ることのできる幸福を追い求める。
ここまで接触現場での虚無感情について熱弁してしまったものの、 接触現場で得ることのできる幸福は他の何物にも代えがたいのだ。
その日を最高のコンディションで迎えるため、 数週間前から美容室でメンテナンスをしたり、 ネイルを新調したり、新しいワンピースを買ったりする。 当日は早起きして念入りに身支度をする。 その準備もなんだかんだ楽しい。とてもお金はかかるけれど。 たった数秒の為だけれど。
一緒に撮った写真やチェキは、世界に一つしかない宝物だ。 辛いときに見返すと、当時の幸せな時間を思い出して元気になる。
当時嫌な思いをしたことも、数年も経てば楽しい思い出だ。「 写りが悪すぎる!最悪だ!」 と大騒ぎしてわめき散らかしたチェキも、こんなこともあったな~ と捉えられるようになったりするし、 宅配にしたはずなのに会場で数十冊の写真集を手渡しされ、 ヒーヒー言いながら新宿を歩いた事も、今では鉄板ネタだ。

 


接触現場に幸せは存在する。
同時に、 その幸せを飲み込んでしまうほどの虚無が存在することも確かな事実である。


けれど、初めて会ったときの、話したときの、 笑いかけてくれたあの瞬間の「幸福」は、 生涯忘れることができない。


その幸福を抱きしめて、私はこれからも接触現場に行く。