いつだって一寸先は闇

をたくの備忘録です。

安西くん、療養必要だってよ。

(8月4日 総括更新)

 

書きたい時に書き加え、消したい時に消します。

日記というか備忘録のような、そんなものです。

復帰した時に、こんなこともあったねって笑えるように。

 

12月27日

安西くんが舞台を降板した。開幕の前日のことだった。訳が分からなくて涙も出なかった。なんでお金を払っても会えないのだろう?わかっているけれどどうしても受け入れられない。

 

12月28日

チケットを譲りに、劇場に行った。いつもの見慣れた年末の風景だった。いないのに、名前ののぼりが上がっていた。快晴だった。友人とやきとんを食べた。やるせなくて、たくさんたくさんお酒を飲んだ。

 

12月29日

二日酔いになった。劇場に行った。観劇した。

安西くんはいなかった。すごくすごく悲しかった。愉快に踊るみんなを見ながら泣いた。そりゃ少しは悲しい気持ちになるだろうとは思っていたが、自分でもここまで泣くとは思わなかった。二日酔いと涙でずっと足元がフラフラだった。酒には気をつけようと思った。次の日のチケットを売った。

一緒に観劇に来てくれた友人がずっと支えてくれた。友人がいてくれたので楽しい思い出になった。

 

1月10日

安西くんが舞台を降板した。1月下旬開幕のものだ。ならびに、「体調不良のため療養が必要と医師の判断を受けた」と発表された。

今、安西くんが何に苦しんでいるのかよくわからないのが、とてつもなくもどかしい。元気かな?と思う日々だったが、元気ではないことがわかってしまった。

私が次安西くんに会える日は何月何日なのか、わからなくなってしまった。

 

1月24日

安西くんが降板した舞台のチケットを払い戻しした。

紙がお金に変わった。前に誰かがつぶやいてたけれど、本当に魔法が解けたみたいだった。

このお金でSUQQUのリニューアルしたアイシャドウ買っちゃおうかなあ。本当は貯金が最善策なことはわかっているのだけれど、楽しいことに使わないとどうもやってられないの

 

3月1日

先月末に、体調の現状およびチェキ発送の遅延が発表された。また、ラジオドラマへの出演が明かされた。

勿論、少し安心した部分はある。けれど、なぜだかなんとも形容し難いような寂しさが増幅したような気がする。これが彼に必要な時間なのは重々わかっているが、空白はとてもとても悲しいものだ。

そういえば、SUQQUのアイシャドウは買わなかった。でもPOLAのコンシーラーは買った。

 

3月31日

バースデーイベントのチェキが発送されるとのお知らせがあった。

見た目やカメラ写りに割と無頓着な安西くんのランダムチェキは、本当に未知数である。わたしはちょっと元気になった。安西くんが元気なのかはわからないけれど。

今年も、桜のレターセットは使えなさそうだ。

 

4月3日

バースデーイベントのチェキが来た。

想像していたのと結構違うものが来た。

半年前ぐらいに「次やりたい」と言っていた髪型になっていた。こういうなんとも言えない部分のことを有言実行するのが安西くんなんだよなあ、元カノ面になった。

 

5月28日

安西くんの舞台復帰が決まった。

心から嬉しく思う。本当に涙が出そうである。長いようで短い、やっぱり長い5ヶ月だった。

何だか気持ち悪い事を書いてしまうが、安西くんが舞台に立つだけで、私は嬉しいのだ。例え私がその場に居なくても、舞台の上にいるという事実があることだけで、とてつもなく嬉しい。

だって安西くんは、舞台にいれば必ず幸せなのだから。私は安西くんが幸せでいてくれることを心から祈っている。

なんだか、休養期間を経て私は少し大人になった気がする。勝手に気負っていたものがなくなったような、そんな感じである。

さて、半年ぶりのチケット取りが上手くいくのか。見ものである。

 

8月2日

さて、まだまだ先だなあと思っていた観劇初日が明日に迫っている。

ちなみに、前回「チケット取りが上手く行くのか」と記したが、結果として間違えて愛知公演を1枚取った。

既に作品自体は開幕しておりゲネ映像も見たものの、何だかまだ安西くんが復帰した実感が湧かない。その上、「明日だ!楽しみ!やばい!」という程の興奮も特になく、「あ、明日かあ。」という感じである。

待ち望んでいた観劇初日の前日は、案外呆気ない気持ちなのだと思い出した。けれど、そんな呆気なさすらも心地よいものに感じる。

 

8月3日

安西くんが舞台にいる姿を見た。

とにかく安心した。安西くんが舞台の上にいると、私はものすごく安心する。それはきっと、とても幸せそうに見えるからである。安西くんは今日も幸せなんだなあと感じることができるから。

安西くんが袖にはけたあと、自然と涙が出てきた。私にとって安西くんの療養期間は「長いようで短かった」なんて大人びた感想は言えず、長くて長くて長かったから。

安西くんは、私の5000倍療養期間を長く感じただろう 。私の1000000倍辛かっただろう。それでも、舞台にいる姿を見せてくれてありがとう。本当にありがとう。

私にとって、今日はとてもとても幸せな日になった。

 

 

【総括】

記事の入りに、「復帰した時に、こんなこともあったねって笑えるように。」と記したが、実際今「こんなこともあったな〜」と笑いながら読んでいる。

しかし、思い返すと本当に辛い時期もあったなあと感じる。せっかくなら全てをこの記事に残したいのでここで挙げようと思うが、友達と楽しく買い物している時に繁華街を行き交う人々を見て「安西くん今何してるの?」と突如号泣して友達を困らせたり、シラフなのに「こんなに辛い思いをするなら出会わなければよかった」と月9出演者並の発言をしたり、家で夜ご飯を食べ終わったふとした瞬間に「会いたいよ〜〜」と叫びながら1人で泣いたりしていた時期もあった。

 

この療養期間を通して、私は安西くんがいなくてもごくごく普通に生活を送ることができるとわかった。

そりゃかなり落ち込んだりはしたし、前述のように辛い思いはしたけれど、生活は普通に送ることができた。友達をびっくりさせるぐらい暗いだとか、どうしようもなく無気力だとか、大学に行けない、バイトに行けないだなんてことはなかった。普通に授業を受け、友達と遊び、アルバイトもして、洗濯も自炊もして生きてた。

かの有名な某巻頭ポエムに「僕は ついてゆけるだろうか 君のいない世界のスピードに」というものがある。この言葉を拝借すると、私は安西くんがいない世界のスピードに割と普通についてゆけた。

このことを愛が足りないと捉えるのかどう捉えるかはそれぞれであるが、私は普通に生活ができたことが嬉しかった。私の応援の形が依存になっていなかったことがわかったからである。私は、可愛いヲタクでいたい。私は依存することをかわいいと思わない。だけど、心のどこかで、自分は安西くんに依存してしまっているのではないかと不安だった。だから、安西くんがいなくても生きていける自分でいることができて、とても嬉しかった。

 

もう1つわかったことは、安西くんがいない世界は物足りないということ。

あと何日で安西くんの演技が見れる!という期待、幕が上がる前の暗転のどきどき、舞台にいる安西くんを見ている時の幸せな気持ち、劇場からの帰り道の満たされた気持ち、明日からも頑張ろう!という活力。こんなのまだまだ序の口で、安西くんがいる世界でしか感じられない気持ちはまだまだある。これがないと私の毎日は物足りない。

安西くんがいない世界は、私にとってとても寂しい世界だ。

だから、もうあと50年くらいは私の世界からいなくならないでほしい。

そう心から願うばかりである。

 

安西慎太郎に幸あれ。

私に幸あれ。